花チャンネル

日々、私の中から生まれる詩、言葉を綴っています。

嘆き

今の感覚をそのまま言葉に



怒り、驚き、激情、悲しみ



一人の人が亡くなった
天寿ではなかった、殺意を持った攻撃で。



アベノミクスGoogle予測に出てくる業績を残した人が、同じ日本の人に、日本で殺された。



政治。一言で言ってそれ。
それが何を意味するのか、分からないほどバカではない。



敵意が、殺意が、凶行が、表に現れた。



私はこんな国に暮らしてるのか。



彼を巡る醜聞は腐るほど聞いた、耳を塞ぎたいほど聞いた



でも、彼を動かすのは同じ声でなければならなかった。



銃弾で命を断って、この先に何があった。
何を思い描いて彼を撃った。



人を動かすのは声でなければいけない、想いでなければいけない、それが唯一言葉を持つ種族人間に許されたコミュニケーションだからだ。




人は爪を持つ、牙も持つ、そして言葉を持つ。
人を動かすものは言葉でなければいけない。



そうでなければ、人に生まれた意味がない。



もしこの国、政治がダメだと思うのならそれを変えるのは言葉でなければいけない。



平和はお互いの想いを折り重ねて作るものだ、想いを知りたいなら言葉を重ねるしかない。


それが人には許されてる、そう繋がる事ができる。



今まで政にあまり深く関わろとしなかったのは、その想いが上手く汲み取れないから。



その言葉の背景にあるものが複雑に感じたから。



今からでも遅くない、言葉を重ねてみよう。


汲み取るよう努力をしてみよう。


私の思う平和な世界を語ってみよう。

花瓶と花と水と

色鮮やかな花瓶に花が活けてある






花は自由に生を謳歌し表現している



花瓶に支えられ、水をその身としながら生きている






花瓶は綺麗な色柄で花を支え、水を湛えている




その圧倒的な質量で全てを持ちながら





水は花を活かし、花瓶に支えられている



誰にも見られる事もなく、静かにただそこにある



ただ花瓶と水だけがその存在を知っている






私は彼らのように在りたい




時には花のように誰かに支えられて自由に色を放ち



花瓶のように誰かを支え、その縁の彩りとなるよう努め



水のように不可視ながらも必要不可欠で






それぞれが、それぞれを支え合う



それぞれの色を生かし、それぞれをの力を活かし





窓際に彩った彼らに私は教えられる



私もまた、誰かの彩りとなりたいのだと





私は今花なのだろうか、花瓶なのだろうか、水なのだろうか



その時々で形を変える私の在り方をそのまま表現したい



そういう想いでこのブログを創ったのだった





この心に浮かぶ言葉たちが、誰かの心に彩りを


すこしだけでも暖かいものを感じてもらえたらと





すこし、すこし遠回りしてここに帰ってきた気がする





私は今彼らのように在れているのだろうか




私は生を謳歌したい
そして誰かを支えたい




見た事のない世界をこの足で歩き、感じたものを表現したい




その表現したもので、誰かの心になにか彩りや色、暖かさが灯るのであればこれほど嬉しい事はない




花のように、花瓶のように、水のように





今を生きる彼らのように

私から見えるけしき

私から見えるけしき



私から見えるけしきはいつも変わる



そこにある空、そこにある木、そこにある小物



いつもそこにあるもの



でも変わる



私は一つの目をもっているけれど、変わらない心を持っているんじゃない



心に映るけしきはいつも変わる



今日の空に私の心を見る



今日の木はいい気持ちなのだろうか



そこにあるものは変わらないけれど、そこにいる私は今の私だ



きっと空もきのうとはちがう、けれどそれでいいのだ



今の私と、今の空、それは今だけが織り成すけしきなんだ








空が私に教えてくれる事がある



「今日はいい天気?」と空が問いかけてくる



「ええ、今日はいい天気よ」と私は答える




その会話はいつも変わらない

生きる事に慣れる

生きる事に慣れている



人は生きる事に慣れてしまっている



夜眠れば朝が来る



ご飯を食べながら、今日の予定を考えている


身支度を整えながら、お昼ご飯を考えている


夜に帰って来たら出迎えてくれる人がいると思っている


いってきます、いってらっしゃい


その言葉は二度と言えない言葉かもしれない
その言葉は二度と聞けない言葉かもしれない


生きる事に慣れることは鮮度を失う事


朝目覚めた事を喜び、夜のまどろみにたゆたう


朝ご飯の味を噛みしめて、味わうこと


そんな新鮮な瞬間は今しかない


生きるとは今しかない

幸せは感じるちから。

人とこころと社会と。





「できる、できない」


「やりたい、やりたくない」



この違いってなんだろう。



それは人からの評価なのか
自分の感覚なのかの違いだと思う。



人からの評価で自分のする事を決めるのを


成果主義


と呼ぶらしい。





「あなたは、どれだけ果実が採れましたか?」


「その数は他の人に比べて、どれほどのものでしょうか?」



って感じかな?




いっこだけ、ひとつだけ大切なものが抜けてると私は思う。




それは



「その果実は、美味しかったですか?」


「自分で育てた果実が成ったのを見たとき、どう思いましたか?」




そう、自分がどう感じたのかっていうのが抜けてると思うの。





私は
のんびりと暮らしてるけど、どうしても忙しい時もあって。



その日々の暮らしの中で、ひとつだけ「アウトワード」を決めてる。




言ってはいけない言葉」じゃなくて


「自然と口や頭に浮かんだら、ストップのサイン」として




それは



「時間がもったいない」



という言葉。





この言葉が頭をよぎる時、必ず私は
「できる、できない」のモノサシの上に立ってる。





そして

「(できていないから)時間がもったいない」

というこころの形になってる。





これは本当にアウト。



今すぐにストップ。




私の幸せは
「私が幸せと感じているか」
どうかなの。




幸せってとてもとても主観的なもので
人と比べるためのモノサシの上に、その目盛りは無いの。




ふと見上げた夜空


音もなく、窓を濡らす静かな雨


帰り道に沈むグラデーションの夕陽


大好きな人の優しさを感じるたわいもない会話


雨上がり、透明な珠のついた葉っぱ




私はここにある素敵なものを深く味わう時に、幸せを感じるから。









なんかこの社会は生きづらいなぁ、と思う人へ。



今、私たちの生きる社会という場所はこのモノサシがとても多いと思う。



「できる、できない」を計るモノサシ。



一度、そのモノサシの上から降りてみよう。



そこには
あなたの感じる世界だけがある。



もしその世界のなかで
「素敵」と想うものがあったら
たっぷりと時間をかけて、こころゆくまで味わってほしい。



きっと、その感じる力こそが
あなたの本当の才能だと私は想うから。






世界は実は、いつも素敵なものであふれてるんだよ。


私は生きていて、そう感じるから。

止まる

止まっているという事。



ただ、自然の中に座って心の中に耳を澄ませて、自然の音にも耳を澄ませる。



一体化する。

私が自然になって、自然が私になる。



私の頭は、自然を無視することが多くて。


先に、先へと進みたがる。



それは妄想の類いなんだけど、それを現実化するために行動を起こしたがる。



自然は今しかないんだけど、それを平気で踏み台にしがち。



私は止まった時間、自然との時間に幸せを感じるから
その時間を増やしたい。


いや、その時間を土台にしたい。




体と自然を置いて行きがちなこの世界で。

君たちはどう生きるのか

「君たちはどう生きるのか」というベストセラーだという漫画を
読んでみました。 




息苦しい、ただ息苦しい。




まるで、昔の私がそこに居るような感覚になりました。




昔の私なら、悩んでたであろう


「君たちはどう生きるのか」


という作者からの問い。






今なら即答できます。



「それをあなたに教える筋合、ないよね?」



「いいから口出ししないでよ。」


です。




年をとってずいぶんと生意気になりました(笑)






ここから先は
人によっては、とても不快になるかもしれません。



それでも
昔の私にメッセージを書きたくて。



それが誰かの役に立つかもしれないと思って。











10年くらい前の私へ。






答えを、自分の生き方を、人に問わない事だよ。





人の信念が、自分の感じる事よりも優れているなんて思っちゃダメだよ。





傲慢になれって言ってるんじゃないの。



自分の心で感じるものを、大切にしてほしいと思うの。






他人の言葉は、どれだけ立派でも、強くても、かっこよくても




「自分の心から出たものじゃない」



「その人の世界から漏れ出た、その人の一部」




って事を忘れてはいけないよ。







本という媒体は特にそう。




作者は「あなた個人」へ言葉を紡いではいない。



「未だ見ぬ読者のみんなへ」




不特定多数へ向けて
書いている言葉だから。





鵜呑みにしないで。




よく噛み砕いて、消化して。






どんな信念が


作者を突き動かして


言葉を紡がせて


あげく出版なんて大変な事をさせているのかをよく見極めて。





じゃないと、自分の軸を他人に預ける事になってしまう。





私も経験があるから、痛いほど分かる・・・







それはとても不安定な道。




「こんな時あの人なら、どう考える?」



「どう動く?」



「・・・どう感じる?」





答えを頂いた人とどれだけ一体化しても、それはどこまでも他者。




慣れると自分の感覚を信じなくなってしまう。




まるで「正しさ」の圧力鍋の中に居るような。





読んでいて、懐かしい圧迫感を感じていました。






「わからない、答えがほしい。」


という人が


「答えを教えよう!」


という人に頼るのは、自然な事。






でも、その先にあるのは答えじゃないの。



圧力鍋の入り口だよ。







少なくとも、その中にいるとき



私は幸せではなかったよ。







そもそも内向的な私に



「俺は正しい、俺の話を聞けー!」



という強烈に外向的な人の本と合うわけがないって



今なら分かるんだけどさ(笑)








自己啓発というジャンルでベストセラーになるということは



「無意識で、多くの人がこんな人を理想としている。」



ということだよ。






この分かりやすく、伝わりやすい本を
PTAの人たちが、感受性の高い子供に押し付けようとしているらしい。



その理想は、誰のためなの?



それは、自分の感覚を捨てて
地雷原を裸で歩かせるようなものなのにね。






静かに目を閉じて、ゆっくり息をしてみて。




そこで感じるものが、あなたのもの。




それは人には伝えられない、あなただけのもの。




そして「これはみんなに伝えなければ!」と思ったものが
言葉になり、本になってるの。





言葉は、感じるものには絶対に勝てない。



言葉は、感じるものを表現するための道具だから。




だから、人の言葉よりも
自分の感覚を信じてほしい。





そして、発信する必要はないけど



自分の感じるものを言葉にしてみてほしいです。



その言葉こそが、あなたを創っていくんです。





10年くらい未来の私より。











何かのレビューなんてがらじゃなくて、
「それをどう感じるかなんて、その人次第だよね。」
って思うし




ましてや批評なんて、作った人に失礼だと思うけど。





この本は分かりやすくて、間口が広いから。


「他者の理想を、軸にする」


その先に待っているものを知ってる分、どうして言いたくなってしまいました。